シ-ギリヤ伝説~スリランカ編(13)
2017年1月2日
ダンブッラ~シ-ギリヤ~ダンブッラ

世界遺産 古代都市シ-ギリヤ (1982年登録)

シ-ギリヤ・レディ(美女のフレスコ画) ※本物は撮影厳禁。これは博物館のレプリカ
今からおよそ1500年前、シ-ギリヤの岩山の頂上に王宮を築いた王がいた。
遡ること5世紀の後半、僅か11年の間この地を統治し、壮大な岩山に傑作を残した狂気の王カ-シャパの伝説は、広くスリランカの人々に言い伝えられている。
カ-シャパは、459年から477年にアヌラ-ダプラを統治し広大な貯水池を建造したダ-ドゥセ-ナ王の長男だった。
カ-シャパには、腹違いの弟モッガラ-ナがいた。
弟の母親は王族の血筋の女性であり、カ-シャパの母親は平民の血筋の女性だった。
この為カ-シャパは弟モッガラ-ナに王位の継承権を奪われるのを恐れ、実父ダ-ドゥセ-ナ王を監禁して王位を剥奪。
モッガラ-ナは兄の行為に憎しみを抱きながらもインドへと亡命。
その後カ-シャパは父ダ-ドゥセ-ナ王に対し、『隠している財産を全部出せ』と要求。
しかし父はそれに応えず、自分が建設した貯水池カラ-・ウェワに息子を連れて行き、池を指さし『これが私の財産の全てだ』と言った。
怒りに震えたカ-シャパは、父に恨みを持つ家臣に命じ、父親を殺させてしまう。
その後カ-シャパは、弟モッガラ-ナの復讐を恐れた為か、父を殺してしまった後悔と苦しみの為か、神懸ったようにシ-ギリヤの切り立った岩山に宮殿の建造を始めた。
そして7年後、カ-シャパは自分の王座をその頂上においた。
それから11年、インドから戦いを挑んできたモッガラ-ナに破れ、カ-シャパは自ら命を絶つ。
モッガラ-ナはシ-ギリヤの王宮を仏教僧に寄進し、ただちに首都をアヌラ-ダプラへと戻したのだった。
埋没していたシ-ギリヤ・ロックの宮殿が発見されたのは、カ-シャパ王が死んでから約1400年も後のこと。
イギリス植民地時代に入った、19世紀も後半のことである。

天空に浮かぶ岩上の王宮 ※写真はWEBより
ダンブッラ~シ-ギリヤ~ダンブッラ

世界遺産 古代都市シ-ギリヤ (1982年登録)

シ-ギリヤ・レディ(美女のフレスコ画) ※本物は撮影厳禁。これは博物館のレプリカ
今からおよそ1500年前、シ-ギリヤの岩山の頂上に王宮を築いた王がいた。
遡ること5世紀の後半、僅か11年の間この地を統治し、壮大な岩山に傑作を残した狂気の王カ-シャパの伝説は、広くスリランカの人々に言い伝えられている。
カ-シャパは、459年から477年にアヌラ-ダプラを統治し広大な貯水池を建造したダ-ドゥセ-ナ王の長男だった。
カ-シャパには、腹違いの弟モッガラ-ナがいた。
弟の母親は王族の血筋の女性であり、カ-シャパの母親は平民の血筋の女性だった。
この為カ-シャパは弟モッガラ-ナに王位の継承権を奪われるのを恐れ、実父ダ-ドゥセ-ナ王を監禁して王位を剥奪。
モッガラ-ナは兄の行為に憎しみを抱きながらもインドへと亡命。
その後カ-シャパは父ダ-ドゥセ-ナ王に対し、『隠している財産を全部出せ』と要求。
しかし父はそれに応えず、自分が建設した貯水池カラ-・ウェワに息子を連れて行き、池を指さし『これが私の財産の全てだ』と言った。
怒りに震えたカ-シャパは、父に恨みを持つ家臣に命じ、父親を殺させてしまう。
その後カ-シャパは、弟モッガラ-ナの復讐を恐れた為か、父を殺してしまった後悔と苦しみの為か、神懸ったようにシ-ギリヤの切り立った岩山に宮殿の建造を始めた。
そして7年後、カ-シャパは自分の王座をその頂上においた。
それから11年、インドから戦いを挑んできたモッガラ-ナに破れ、カ-シャパは自ら命を絶つ。
モッガラ-ナはシ-ギリヤの王宮を仏教僧に寄進し、ただちに首都をアヌラ-ダプラへと戻したのだった。
埋没していたシ-ギリヤ・ロックの宮殿が発見されたのは、カ-シャパ王が死んでから約1400年も後のこと。
イギリス植民地時代に入った、19世紀も後半のことである。

天空に浮かぶ岩上の王宮 ※写真はWEBより
朝8時、バスタ-ミナルから始発に乗り、スリランカ観光のハイライトとも言うべき世界遺産シ-ギリヤへと向かった。
バスは1時間程でシ-ギリヤに到着。
降りた所は周囲に何もないただの道端、そこから遺跡まではしばらく歩かなければならない。
ふいに、シ-ギリヤ・ロックが姿を現した。
一応そんな予感はしていたので、驚くことなく、シ-ギリヤ・ロックと感動の対面を果たす。

バスの面構え
今度はシ-ギリヤ・ロックを背にし、赤茶けた未舗装の道をしばらく我慢して歩く。
やがて多くの観光客の姿が見えてきた。
ロ-カルバスで来た客は計5人、その内の3人は日本人(僕ら親子、石上さん)だ。
ほとんどの人は車かツア-バスで来ているようだった。
チケットオフィスに並び、何はともあれ入場券を購入。
スリランカの遺跡入場料はただでさえ高いというのに、ここは更に高い。
後で知ったが、スリランカ人は50ルピ-(子供25ルピ-)で入れるようだ。
国の収入源を外から取ろうとする趣旨は分かるが、それにしても87倍の差額は有り得ない。
まずは、博物館を見学する。
ここは日本の援助によって、2009年に建てられたそうだ。
だったら日本人くらい安くしてくれよ・・と願うのは、きっと僕だけではないだろう。
この博物館にはシ-ギリヤからの出土品を中心に、宮殿の再現VTR、フレスコ画のレプリカ等があり、見応えは中々だった。
しかしここも例に漏れず、館内はほとんどが撮影禁止。
そしていよいよロック本体を目指し、参道となる一本道を真っ直ぐ進んで行く。
正面に高く聳える巨大な岩山、それがシ-ギリヤ・ロックだ。
大概の岩であればどこかしら登り口が見出せそうだが、この岩は断崖絶壁で、見た感じ一切の隙がない。

迫り来るシ-ギリヤ・ロック

参道には石窟寺院が多い

ロック真下に到着
こんな岩に登ろうとする発想、ましてやこの上に宮殿を築こうとする発想が信じられない。
それも大昔の時代に。
1938年にイギリスが造ったという、鉄製の螺旋(らせん)階段を上り切る。
この階段が出来る前は、竹のハシゴを利用していたらしい。
螺旋階段を上り切った先、オ-バ-ハングした壁面に妖艶な女性達を描いた壁画がある。
かつてはこの岩山の壁に500人程描かれていたというが、現在残っているのは僅かに18人。
ここは何としても写真を撮っておきたいところだが、壁画の写真撮影は完全にNG。
そうは言っても大概はこっそり撮影を試みる僕だが、ここだけは空気が他とまるで違っていた。
写真を撮った馬鹿な中国人が係員にひどく叱られ、パスポ-トを求められたり、隅の方に連行されたり、かなり重い空気が漂っていた。

1938年に英国が造ったという螺旋階段 ※横に延びる幕が美女のフレスコ画

ミラ-・ウォ-ルを行く人々
『ミラ-・ウォ-ル』と呼ばれる回廊の壁は、真珠のような輝きを持ち、鏡のような光沢があることから、そう呼ばれるようになった。
かつてこの反対側の岩壁には美女たちのフレスコ画があり、ちょうどミラ-・ウォ-ルに映る仕掛けになっていたらしい。
ミラ-・ウォ-ルを通り抜け、ライオンの入口から最後の鉄製階段を上っていく。
手摺はあるものの、高い所が苦手の僕にはそれなりの緊張が走った。
そして斜度の増してきた狭い階段を上り切ると、ふいにロックの頂上に着いていた。

ミラ-・ウォ-ル(左)

エレファント・ロック ※写真中央やや右下

恐るべし、絶壁を下る猿

ライオンの入口 ※ライオンの両足だけが残っている

当時は顔があったとか ※写真はWEBより

いざ頂上へ
失われた空中都市マチュピチュ、INペル-。
そこを訪れたことがある者なら、やはりシ-ギリヤとマチュピチュを比べてみたくなる。
頂上からは360度の眺望が広がり、確かに景色は良かった。
ただそれは、登山で得た達成感に近いものがある。
ここに宮殿を造ったというカ-シャパの行いは想像を絶するが、残っているのは『何々跡』ばかりで、イメ-ジが付き難い。
せめて柱だけでも残っていれば感動もあっただろうに、立体感の無さがマチュピチュとの大きな違いとなって表れた。

シ-ギリヤ・ロック頂上は

少し残念

ジャングリ-な山並み

王のプ-ル

何の跡だかよく分からない

ピドュランガラ山頂を遠望 ※是非行きたかったが往復6km+登山1時間半

王宮跡

皆どう思っているのかな
ロック頂上にある唯一の木陰に腰を下ろし、昼食用にパンを食べ、ゆっくり時を過ごした。
遺跡内ということで食べ物の摂取は禁止かと思っていたが、何ら問題はなかった。
最後に頂上をくまなく歩き、いよいよ下ることとする。
上りは怖かったが、下りも充分怖かった。

頂上を後に
ライオンの入口まで下りてきて、それ以降、下りは先程と違うル-トとなっていた。
あの垂直に上る螺旋階段はフレスコ画に至る為だけの上昇手段だったようで、ライオンの入口より下は緩やか勾配の幅広な階段が備わっていた。
そして一気にロック下へと下山完了。
通常ならこのまま出口へと向かうのだが、僕らはル-トに反し、再び博物館方面へと歩き出す。
そして、博物館到着。
当初の入場の際にチケットの半券は切られていたが、出口からこっそり館内へと入っていった。
逆方向に歩く僕らを係員は怪しんでいたが、適当な笑みとジェスチャ-で、何とかフレスコ画のレプリカまで辿り着く。
本物は一切撮影が出来なかった為、何とかこのレプリカだけでもカメラに収めておきたかったのだ。

再度博物館を目指す

シ-ギリヤ博物館のレプリカ ※歩き方情報は古い、ここで最初に撮っておくべき

フレスコ画(本物)は5世紀の作

現在は18人しか残ってないが、かつては岩山に500人描かれていた
無事、満足のいく再入館を終え、出口から外へ出ようとした途端、突如大雨が降り出してきた。
折り畳み傘は1本バックに入れているが、出来れば雨の中は歩きたくない。
少し館内で雨宿りをしていたら、雨は直ぐに止んでくれた。
バスも何とか拾え、無事ダンブッラまで戻ってきた。
両替えを済ませ、宿の道向かいにある郵便局でエアメ-ルを3通投函。
そして夜、石上さんとロ-カル食堂に出かけ、カレ-を腹一杯食べてきた。

シ-ギリヤ・ロックと女学生 ※絶景にあるバス停(ただの路肩)

宿のロビ-で日記書き

オ-ナ-のカストゥリ(34歳独身)と

郷に従え

夕食 ※とても美味かったが料金設定に不満大。まだシステムが分かっていない
ダンブッラ・Tourist Resort泊-Rs.1500
朝昼用に(パンRs.30×2、Rs.25×1、ウルンドゥ・ワデ-Rs.30×2、エラワル・ロティRs.30×2) ホッパ-(Rs.15×2) バス(ダンブッラ~シ-ギリヤRs.35×2) 遺跡入場料(大人Rs.4350、子供Rs.2175) ポストカ-ド(Rs.30) バス(シ-ギリヤ~ダンブッラRs.35×2) ランブ-タン(10個Rs.100) 郵便局(エアメ-ルRs.25×3) 水(1.5㍑Rs.70) 夕食(ビ-フ、ベジカレ-Rs.600) 計Rs.7775
バスは1時間程でシ-ギリヤに到着。
降りた所は周囲に何もないただの道端、そこから遺跡まではしばらく歩かなければならない。
ふいに、シ-ギリヤ・ロックが姿を現した。
一応そんな予感はしていたので、驚くことなく、シ-ギリヤ・ロックと感動の対面を果たす。

バスの面構え
今度はシ-ギリヤ・ロックを背にし、赤茶けた未舗装の道をしばらく我慢して歩く。
やがて多くの観光客の姿が見えてきた。
ロ-カルバスで来た客は計5人、その内の3人は日本人(僕ら親子、石上さん)だ。
ほとんどの人は車かツア-バスで来ているようだった。
チケットオフィスに並び、何はともあれ入場券を購入。
スリランカの遺跡入場料はただでさえ高いというのに、ここは更に高い。
後で知ったが、スリランカ人は50ルピ-(子供25ルピ-)で入れるようだ。
国の収入源を外から取ろうとする趣旨は分かるが、それにしても87倍の差額は有り得ない。
まずは、博物館を見学する。
ここは日本の援助によって、2009年に建てられたそうだ。
だったら日本人くらい安くしてくれよ・・と願うのは、きっと僕だけではないだろう。
この博物館にはシ-ギリヤからの出土品を中心に、宮殿の再現VTR、フレスコ画のレプリカ等があり、見応えは中々だった。
しかしここも例に漏れず、館内はほとんどが撮影禁止。
そしていよいよロック本体を目指し、参道となる一本道を真っ直ぐ進んで行く。
正面に高く聳える巨大な岩山、それがシ-ギリヤ・ロックだ。
大概の岩であればどこかしら登り口が見出せそうだが、この岩は断崖絶壁で、見た感じ一切の隙がない。

迫り来るシ-ギリヤ・ロック


参道には石窟寺院が多い

ロック真下に到着
こんな岩に登ろうとする発想、ましてやこの上に宮殿を築こうとする発想が信じられない。
それも大昔の時代に。
1938年にイギリスが造ったという、鉄製の螺旋(らせん)階段を上り切る。
この階段が出来る前は、竹のハシゴを利用していたらしい。
螺旋階段を上り切った先、オ-バ-ハングした壁面に妖艶な女性達を描いた壁画がある。
かつてはこの岩山の壁に500人程描かれていたというが、現在残っているのは僅かに18人。
ここは何としても写真を撮っておきたいところだが、壁画の写真撮影は完全にNG。
そうは言っても大概はこっそり撮影を試みる僕だが、ここだけは空気が他とまるで違っていた。
写真を撮った馬鹿な中国人が係員にひどく叱られ、パスポ-トを求められたり、隅の方に連行されたり、かなり重い空気が漂っていた。

1938年に英国が造ったという螺旋階段 ※横に延びる幕が美女のフレスコ画

ミラ-・ウォ-ルを行く人々
『ミラ-・ウォ-ル』と呼ばれる回廊の壁は、真珠のような輝きを持ち、鏡のような光沢があることから、そう呼ばれるようになった。
かつてこの反対側の岩壁には美女たちのフレスコ画があり、ちょうどミラ-・ウォ-ルに映る仕掛けになっていたらしい。
ミラ-・ウォ-ルを通り抜け、ライオンの入口から最後の鉄製階段を上っていく。
手摺はあるものの、高い所が苦手の僕にはそれなりの緊張が走った。
そして斜度の増してきた狭い階段を上り切ると、ふいにロックの頂上に着いていた。

ミラ-・ウォ-ル(左)

エレファント・ロック ※写真中央やや右下

恐るべし、絶壁を下る猿

ライオンの入口 ※ライオンの両足だけが残っている

当時は顔があったとか ※写真はWEBより

いざ頂上へ
失われた空中都市マチュピチュ、INペル-。
そこを訪れたことがある者なら、やはりシ-ギリヤとマチュピチュを比べてみたくなる。
頂上からは360度の眺望が広がり、確かに景色は良かった。
ただそれは、登山で得た達成感に近いものがある。
ここに宮殿を造ったというカ-シャパの行いは想像を絶するが、残っているのは『何々跡』ばかりで、イメ-ジが付き難い。
せめて柱だけでも残っていれば感動もあっただろうに、立体感の無さがマチュピチュとの大きな違いとなって表れた。

シ-ギリヤ・ロック頂上は

少し残念

ジャングリ-な山並み

王のプ-ル

何の跡だかよく分からない

ピドュランガラ山頂を遠望 ※是非行きたかったが往復6km+登山1時間半

王宮跡

皆どう思っているのかな
ロック頂上にある唯一の木陰に腰を下ろし、昼食用にパンを食べ、ゆっくり時を過ごした。
遺跡内ということで食べ物の摂取は禁止かと思っていたが、何ら問題はなかった。
最後に頂上をくまなく歩き、いよいよ下ることとする。
上りは怖かったが、下りも充分怖かった。

頂上を後に
ライオンの入口まで下りてきて、それ以降、下りは先程と違うル-トとなっていた。
あの垂直に上る螺旋階段はフレスコ画に至る為だけの上昇手段だったようで、ライオンの入口より下は緩やか勾配の幅広な階段が備わっていた。
そして一気にロック下へと下山完了。
通常ならこのまま出口へと向かうのだが、僕らはル-トに反し、再び博物館方面へと歩き出す。
そして、博物館到着。
当初の入場の際にチケットの半券は切られていたが、出口からこっそり館内へと入っていった。
逆方向に歩く僕らを係員は怪しんでいたが、適当な笑みとジェスチャ-で、何とかフレスコ画のレプリカまで辿り着く。
本物は一切撮影が出来なかった為、何とかこのレプリカだけでもカメラに収めておきたかったのだ。

再度博物館を目指す

シ-ギリヤ博物館のレプリカ ※歩き方情報は古い、ここで最初に撮っておくべき

フレスコ画(本物)は5世紀の作

現在は18人しか残ってないが、かつては岩山に500人描かれていた
無事、満足のいく再入館を終え、出口から外へ出ようとした途端、突如大雨が降り出してきた。
折り畳み傘は1本バックに入れているが、出来れば雨の中は歩きたくない。
少し館内で雨宿りをしていたら、雨は直ぐに止んでくれた。
バスも何とか拾え、無事ダンブッラまで戻ってきた。
両替えを済ませ、宿の道向かいにある郵便局でエアメ-ルを3通投函。
そして夜、石上さんとロ-カル食堂に出かけ、カレ-を腹一杯食べてきた。

シ-ギリヤ・ロックと女学生 ※絶景にあるバス停(ただの路肩)

宿のロビ-で日記書き

オ-ナ-のカストゥリ(34歳独身)と

郷に従え

夕食 ※とても美味かったが料金設定に不満大。まだシステムが分かっていない
ダンブッラ・Tourist Resort泊-Rs.1500
朝昼用に(パンRs.30×2、Rs.25×1、ウルンドゥ・ワデ-Rs.30×2、エラワル・ロティRs.30×2) ホッパ-(Rs.15×2) バス(ダンブッラ~シ-ギリヤRs.35×2) 遺跡入場料(大人Rs.4350、子供Rs.2175) ポストカ-ド(Rs.30) バス(シ-ギリヤ~ダンブッラRs.35×2) ランブ-タン(10個Rs.100) 郵便局(エアメ-ルRs.25×3) 水(1.5㍑Rs.70) 夕食(ビ-フ、ベジカレ-Rs.600) 計Rs.7775
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| '17スリランカ編 | 08:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑