歴史探訪~天下分け目の、関ヶ原合戦
豊臣秀吉はその晩年、五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長束正家)を制度化して自らの死後の政務を有力大名や諸将に託そうとしていた。ところが、豊臣政権下、秀吉の側近として政務を取り仕切っていた石田三成ら(いわゆる文治派)と加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら(いわゆる武断派、七将)との間に対立が生じる。政権内部での両派の対立の深刻化と家康と武断派諸将との接近などを経て、慶長5年(1600年)に関ヶ原で戦いが始まった。関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍からなる。東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取っていた。しかし、この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなっていく。
小早川秀秋は松尾山に布陣し正午過ぎ、家康は内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を命じる。小早川秀秋は、この家康の督促に松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃。大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していた為、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を開始。ここに関ヶ原の戦いは、開始より僅か6時間あまりでその勝敗が決まった。 (※以上、ウィキペディアより)

開戦地 ※合戦当日の朝、霧が薄くなったのを合図に松平・井伊隊が動く

笹尾山・石田三成陣跡 ※戦いの様子を一望できる笹尾山に西軍・三成は陣を置く

石田三成陣地

笹尾山

島左近陣跡(西軍) ※鬼の左近と称された猛将、石田隊の先手として笹尾山麓に布陣

桃配山・徳川家康最初陣跡 ※東軍・家康の陣は桃配山へ、自ら3万の大軍を率いここで指揮を取る

床几場・徳川家康最後陣跡 ※戦況に苛立つ家康は陣をここに前進、松尾山の小早川秀秋へ発砲

決戦地 ※優勢となった東軍諸隊、三成の首を狙いここで最後の激戦が繰り広げられた

島津義弘陣跡(西軍) 小西行長陣跡(西軍)

松平忠吉・井伊直政陣跡(東軍) 東首塚、首洗いの古井戸
小早川秀秋は松尾山に布陣し正午過ぎ、家康は内応を約していた小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を命じる。小早川秀秋は、この家康の督促に松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃。大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していた為、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を開始。ここに関ヶ原の戦いは、開始より僅か6時間あまりでその勝敗が決まった。 (※以上、ウィキペディアより)

開戦地 ※合戦当日の朝、霧が薄くなったのを合図に松平・井伊隊が動く

笹尾山・石田三成陣跡 ※戦いの様子を一望できる笹尾山に西軍・三成は陣を置く

石田三成陣地

笹尾山

島左近陣跡(西軍) ※鬼の左近と称された猛将、石田隊の先手として笹尾山麓に布陣

桃配山・徳川家康最初陣跡 ※東軍・家康の陣は桃配山へ、自ら3万の大軍を率いここで指揮を取る

床几場・徳川家康最後陣跡 ※戦況に苛立つ家康は陣をここに前進、松尾山の小早川秀秋へ発砲

決戦地 ※優勢となった東軍諸隊、三成の首を狙いここで最後の激戦が繰り広げられた


島津義弘陣跡(西軍) 小西行長陣跡(西軍)


松平忠吉・井伊直政陣跡(東軍) 東首塚、首洗いの古井戸

郡上八幡城 ※遠藤・稲葉・井上・金森・青山の各氏19代の城主が310年に亘り居城、昭和8年に再建された


力石 貝合せ一対


日本最古の木造再建城 城下町遠望


ポップサ-カス岐阜公演(モレラ岐阜) ※3時間並び、自由席の2公演目を確保
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