ショパンでも聴きながら~中欧周遊編(25)
2019年1月11日
クラクフ~ワルシャワ

フレデリック・F・ショパン(1810~1949)

ショパンが最後に使っていたプレイエル社製のピアノ

ショパンの髪

ショパン博物館 ※音楽ファンでなくても是非訪れたい
偉大なピアニストであり、世界的な作曲家、フレデリック・F・ショパン(1810~1949)。
1810年にワルシャワ郊外のジェラソヴァ・ヴォラでフランス人の父とポ-ランド人の母の間に生まれた。
ショパンは生後7ヶ月の時にワルシャワへと移住し、そこで20歳までを過ごす。
7歳で初めて作曲をするなど『ワルシャワの天才児』と呼ばれていたショパンだが、体が弱く、療養の為ポ-ランドの田舎で過ごすことが多かった。
ショパンは20歳で活躍の場を広げる為ウィ-ンへと旅立つが、満足な活躍が出来ず、父の母国であるフランスへと移住し、そこで世界的な音楽家としての地位を確立していく。
当時のポ-ランドは、ロシア帝国の統治下に置かれていた時代。
ショパンがワルシャワを離れた1830年11月2日の僅か25日後に、ワルシャワ市民による蜂起が勃発した。
ショパンはポ-ランドへの望郷の思いを抱えながらも二度と母国へ戻ることは出来なかった。
39歳の若さで亡くなったショパンは遺言として、『体は戻れなくても、せめて心臓だけでも母国に持ち帰ってほしい』と姉のルドヴィカに伝える。
そしてその言葉通り、死後ショパンの心臓はワルシャワへと運ばれ、聖十字架教会の柱の中に安置されることになった。
ショパン博物館地下にあるリスニングル-ムでショパンの曲を聴きながら、僕は今、ゆっくり今日の日記を書いている。

聖十字架教会 ※この柱の下にショパンの心臓が埋められている
クラクフ~ワルシャワ

フレデリック・F・ショパン(1810~1949)

ショパンが最後に使っていたプレイエル社製のピアノ

ショパンの髪

ショパン博物館 ※音楽ファンでなくても是非訪れたい
偉大なピアニストであり、世界的な作曲家、フレデリック・F・ショパン(1810~1949)。
1810年にワルシャワ郊外のジェラソヴァ・ヴォラでフランス人の父とポ-ランド人の母の間に生まれた。
ショパンは生後7ヶ月の時にワルシャワへと移住し、そこで20歳までを過ごす。
7歳で初めて作曲をするなど『ワルシャワの天才児』と呼ばれていたショパンだが、体が弱く、療養の為ポ-ランドの田舎で過ごすことが多かった。
ショパンは20歳で活躍の場を広げる為ウィ-ンへと旅立つが、満足な活躍が出来ず、父の母国であるフランスへと移住し、そこで世界的な音楽家としての地位を確立していく。
当時のポ-ランドは、ロシア帝国の統治下に置かれていた時代。
ショパンがワルシャワを離れた1830年11月2日の僅か25日後に、ワルシャワ市民による蜂起が勃発した。
ショパンはポ-ランドへの望郷の思いを抱えながらも二度と母国へ戻ることは出来なかった。
39歳の若さで亡くなったショパンは遺言として、『体は戻れなくても、せめて心臓だけでも母国に持ち帰ってほしい』と姉のルドヴィカに伝える。
そしてその言葉通り、死後ショパンの心臓はワルシャワへと運ばれ、聖十字架教会の柱の中に安置されることになった。
ショパン博物館地下にあるリスニングル-ムでショパンの曲を聴きながら、僕は今、ゆっくり今日の日記を書いている。

聖十字架教会 ※この柱の下にショパンの心臓が埋められている

この宿のお蔭で充実した食生活が送れた

部屋でポストカ-ドを書く
3泊した古都クラクフの町を離れ、これから列車で首都ワルシャワへと向かう。
さすがは乗車賃が高いだけはあり、とても速く、車両先頭のシルエットはまるで新幹線のようだった。
無料のワゴンサ-ビスも一度あり、僕はコ-ヒ-、ナナは別のシ-トで寝ていたので、ミネラルウォ-タ-のペットボトルが置かれていた。
移動中、僕は終始今後の計画を練っていたので、寝てる暇もなかった。

これから首都ワルシャワへ

飲物の無料サ-ビス

コ-ヒ-を飲みながら
2時間半弱でポ-ランドの首都ワルシャワに到着。
広い構内を彷徨い、ようやく見つけた国際便オフィスで明日の夜行を押さえておく。
プラハ(チェコ)行きの便があったことはいいが、値段が思った以上に高かった。
購入の際に気付くべきだったが、ワルシャワ発のこの列車はどうやらオロモウツ(チェコ東部の町)を経由して、プラハへと至るようだ。
オロモウツはプラハの後、逆戻りしてくる予定を立てており、そうなるとプラハまで行くのは費用も時間も無駄だということに、この時になって気付く。
慌てて窓口で変更を申し出ることになるが、既に時遅しで、キャンセル料が10%かかり、そのロスは73PLNとなる。
73PLNあれば鶏の丸焼きが7羽も買えると思うと、その選択は瞬時に消えた。
僕ら的には何ごとも鶏で換算すると大変分かり易い。

ワルシャワ中央駅を出ると、高層ビルが聳えて見える

文化科学宮殿 ※スタ-リン(ソビエト)からの贈り物
宿探しは歩き方に載っていた2軒に絞り、そこを何度か行き来し、結局安い方に決めた。
今日は夜の観光となったが、夜のワルシャワはとても綺麗にライトアップされ、見応えがあった。
凍えるような寒さや、サクサクと音を立てる雪道が、その雰囲気をより一層引き立てている。
聖十字教会では柱に埋め込まれたショパンの心臓を見ることが出来た。
この教会は第2次世界大戦中にドイツ軍に破壊され心臓も持ち出されてしまったが、戦後教会が再建されると心臓も返還され、同じ場所に戻された。
尚、ここで行われる日曜のミサは、ポ-ランドでラジオ放送されている。

聖十字架教会

この石柱(右)の下にショパンの心臓が埋められている

祭壇

鮮やかな大通り

ロマンチックな撮影スポット
そして今日のメインとして訪れた”ショパン博物館”がとにかく良かった。
ここはショパンの生誕200周年にあたる2010年にリニュ-アルオ-プンした、17世紀初頭の大貴族オストログスキの旧宮殿。
館内にはショパンが実際に使っていたピアノや愛用品、自筆の譜面や茜色の髪の毛や肖像画等、数多くの貴重な品々が惜しげもなく展示されている。
僕はクラシックには全く詳しくないので、『ショパン』と言われても、これまで名前以外何も思い浮かばなかった。
しかしその名曲の多くは、これまで何度も耳にしたことがあり、知らぬ間にショパンの曲の数々が僕の中に浸透していたのだと気付かされた。

ショパン博物館 ※出来れば最低半日は滞在したい

直筆の譜面も見られる ※シミや消した跡が生々しい

棚の引き出しを引くと中には譜面が入っており、その曲目が流れる

パリのサロンを再現した部屋 ※中央のピアノはショパンが最後に使っていたもの

こちらもショパンが使っていたピアノ

ショパン

ヨ-ロッパ各地を巡った足跡を辿る

ショパン死す

デスマスク ※石膏や蝋で死者の顔の型を取ったもの

ショパンの髪の毛が一番衝撃的だった

愛用品
ショパンが生まれ育ったワルシャワの地で聴くピアノの音色は、とても透き通って耳に入り、僕の奥底にまで優しく染み込んでいった。
僕は普段クラシックを聴くことはまずないが、こうして心地良い音色に触れていると、このまま何時間でも聴いていられそうな気がする。
いつしか両肘をついて眠っているナナとは対照的に、僕はこの地下のリスニングル-ムで何度も席を変え(座席毎に違う曲が4曲入っている)、かれこれ1時間半もショパンの曲に浸っていた。

リスニングル-ム ※ショパンの名曲の数々が聴ける

時間的にガラガラだったのも良かった

ショパン(中央)と仲間達

シアタ-ル-ム

ピアニストってかっこいいな

博物館裏手の壁画 ※中央にピアノを弾くショパン

光のトンネル

部屋の内装はかなり不気味

夕食は鶏の丸焼きとパンとポテチ ※共同キッチンにて

僕ら完全に肉食系

今日の日記
ワルシャワ・カメラ Hostel泊-150PLN
鉄道(ワルシャワ~プラハ大人297.98PLN、子供156.60PLN) 宿代(150PLN) 郵便局(エアメ-ル6PLN×3) ス-パ-マ-ケット(チキンフル11.99PLN、ポテトチップス200㌘3.09PLN、パン0.29PLN×9、ビ-ル500ml1.79PLN×2、ブル-ベリ-ヨ-グルト0.79PLN、オレンジジュ-ス2㍑1.19PLN) ショパン博物館(大人22PLN、子供13PLN) 計680.83PLN
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| '19中欧周遊編 | 08:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑