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死の門~中欧周遊編(22)

2019年1月9日
クラクフ~アウシュヴィッツ、ビルケナウ~クラクフ



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世界遺産 ビルケナウ、ナチス・ドイツの強制絶滅収容所1940-45 (1979年登録)


アウシュヴィッツ強制収容所から2km離れた所に、第二強制収容所ビルケナウが建設された。
面積1.4k㎡の広大な敷地に300棟以上のバラックが並び、アウシュヴィッツよりも更に大規模な一大殺人工場として機能していく。
1941年に建設が開始され、1945年にソ連軍によって解放されるまでに、実にここで百数十万人もの尊い命が奪われた。
輸送列車に乗せられ運ばれてきた人々は、『死の門』と呼ばれる進入門をくぐり、ここビルケナウの敷地へと導かれる。
ただ”ユダヤ人”というだけで何の罪もない人々、中には子供や女性の姿も目立つ。
この先待ち受けている地獄の毎日を、幼い子供たちは予測出来ていたのだろうか。
むごい、むご過ぎる・・。
生々しい当時の写真を前に、僕は一人の人間として言葉を失ってしまった。
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犠牲者追悼碑  ※脇には23言語のプレ-トが並ぶ

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| '19中欧周遊編 | 19:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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古都クラクフ~中欧周遊編(21)

2019年1月8日
~ポ-ランド・クラクフ



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世界遺産 クラクフ歴史地区 (1978年登録)


ここクラクフは11世紀から1596年までの約550年間、ポ-ランド王国の首都として栄えた都。
特に1386年から1572年まで続いたヤギェウォ王朝の時代に最盛期を迎え、当時のクラクフはボヘミアのプラハ、オ-ストリアのウィ-ンと並ぶ文化の中心であった。
河畔の丘に建つヴァヴェル城には歴代のポ-ランド王が住み、大聖堂では14世紀から18世紀までの約400年間、国王の戴冠式が執り行われていた。
また、大聖堂は国王の墓所でもあり、歴代の各王は今もここで眠っている。
ポ-ランドの他の都市が第2次世界大戦で壊滅的な打撃を受けたが、クラクフにはドイツ軍の司令部が置かれた為、戦災を免れたと言われている。
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ヴァヴェル大聖堂

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| '19中欧周遊編 | 21:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ブラチスラヴァ城~中欧周遊編(20)

2019年1月7日
ウィ-ン~スロヴァキア・ブラチスラヴァ~



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ドナウ川の畔にて


オ-ストリアの首都ウィ-ンから列車で1時間、ここはスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ。
ドナウ川の畔にそびえるブラチスラヴァ城に上り、対岸の夜景を眺めている。
この城は、四角い建物の四隅にそれぞれ塔が設けられた独特の外観から、『ひっくり返したテ-ブル』などと呼ばれたりもする。
18世紀には女帝マリア・テレジアの居城となった時期もあるが、政治の中心が再びウィ-ンやブタペストに移ると、この城の地位も下がってしまう。
やがて1811年に起きた大火災によって荒廃し、復旧されたのは第2次世界大戦後のこと。

22:10発の夜行列車まで、時間はまだたっぷりとある。
純白のブラチスラヴァ城は、一面の雪景色と相まって、そのコントラストが実に美しい。
そして振り返れば、ドナウ川の夜景が黄金色に輝いている。
本日2度目となる黄昏ワイン、もちろん目の前には、ブラチスラヴァ城。
この町にはこの城しかないが、城を眺めているだけで僕は何時間でも過ごせそうだ。
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ここはスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァ

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| '19中欧周遊編 | 08:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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楽聖の足跡を訪ねて~中欧周遊編(19)


・・前回の続き


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世界遺産 ウィ-ンの歴史地区 (2001年登録)  ※王宮


中世の時代からヨ-ロッパの音楽の中心地だった、音楽の都ウィ-ン。
1600年頃にイタリアで誕生したオペラは、直ぐにウィ-ンへともたらされ熱狂的な支持を得る。
18世紀以降はハプスブルク家や有力貴族の庇護を受け、多くの音楽家がウィ-ンで活躍した。
モ-ツァルト、ベ-ト-ベンを始め、シュ-ベルト、ブルックナ-、ブラ-ムス、シュトラウス・・。
そんな楽聖たちの足跡が、ここウィ-ンには数多く残っている。
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ル-トヴィヒ・ヴァン・ベ-ト-ベン (1770~1827)

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| '19中欧周遊編 | 08:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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皇妃エリ-ザベト~中欧周遊編(18)

2019年1月6日
ウィ-ン



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世界一美しい図書館 国立図書館プルンクザ-ル
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女帝マリア・テレジアのフォ-クセット  ※王宮銀器コレクション


ハプスブルク家の発祥はウィ-ンではなく、スイス北東部からドイツ西南部にかけてだった。
元々そこを支配していた小貴族に過ぎなかったが、1273年ルドルフ1世が神聖ロ-マ帝国の皇帝に選出されたことをきっかけに頭角を表していく。
『戦いは他の者にさせるがよい。汝幸あるオ-ストリアよ、結婚せよ!』
これはマクシミリアン1世の有名な言葉であり、ハプスブルク家の家訓であった。
王家を発展させる為に、戦争ではなく、結婚政策によって版図を広げていくのだ。
中でも女帝マリア・テレジアの娘マリ-・アントワネットがフランスのルイ16世の妃となった話は有名だ。

しかし『日没無き大帝国』と呼ばれた無敵の王国にも、1859年のイタリア戦争の敗北によって、次第に陰りが見え始めてきた。
そして多くの民族の利害関係が入り乱れた結果、1867年にオ-ストリア・ハンガリ-二重帝国が形成される。
この時の国王はフランツ・ヨ-ゼフ1世で、妃がシシィの愛称で知られるエリ-ザベトだ。
こうして第一次世界大戦に突入するも破れ、ハプスブルク家は1918年に崩壊するまで、650年もの長きに亘り中央ヨ-ロッパを支配した。

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